冷戦後の中国の動き 2
郭小平の時代に入ってからも、軍事部門の近代化を図って1985年5月には兵員の数を450万から350万人に100万人削減する計画を発表しています。
それとともに、同年7月には軍組織編成の近代化を目的として、新たに集団軍への再編成を実行するなど中央主導による一連の努力が続けられました。
この人員合理化によって軍事費の相当部分を節約し、その分を装備の近代化に振り替えることをめざしたのです。
しかし、一方で、こうした郵小平の軍事改革が基本線において軍縮の方向をめざしたものだったことも否定しえない事実です。
文革当時、毛沢東指導部は国際情勢を第三次世界大戦の危機を抱えて緊迫した状況にあるとして、かなり悲観的に見ていましたから、当然、軍事拡張の方針を崩しませんでした。
これに対し郡小平指導部は、80年代以後とりわけソ連のブレジネフ議長が82年末に死んでのち、徐々に国際情勢を基本的に楽観視するようになります。
85年段階でははっきり軍縮平和と多極化の方向に向かうと見なすようになっていました。
ですから、むろん軍の兵器の近代化は必要ではあっても、その緊急性は中国が当面する急速な経済発展の課題に比して優先順位は決して高くなく、しかも基本方向は軍縮にあったわけです。
さらに趙紫陽を中心とした改革派が1979年以来、採用してきた市場経済活性化を軸とする経済政策は、基本的に中央政府の主導性を制限して、地方政府や企業の自主裁量権を増大させる方向に舵取りするものでした。
そこでは消費者の需要である民需が経済発展の誘因として、戦略的に重視されていたわけです。